雨が夕方から降り続いて、親友の家の玄関には濡れた折り畳み傘が二本立てかけてあった。親友の涼は会社の飲み会で遅くなると言っていたから、置いていった外付けHDDを取りに寄って、すぐ帰るつもりだった。
「上がって。お茶くらい出すから」
彼女――涼の母親は、淡いグレーの部屋着にカーディガン。髪は首のうしろでひとつにまとめていて、前髪は少し湿って額に貼りついていた。匂いは洗剤と雨の匂い、それに薄いシャンプーの甘さが混ざる。玄関から廊下に上がると、床が冷たくて靴下越しでも温度がわかった。
リビングに入る。キッチンカウンターの上には湯気の立つ急須。湯気が顔に触れると、鼻の奥に渋い香りが残る。テーブルにHDDを置いて、カップを受け取った。縁が熱い。両手で持ってふうふうと息を吹きかけると、彼女は笑って椅子を少し引いた。
「涼、遅くなるって。今日は新人の人が送別会の幹事なの?」
「はい、たぶん終電です」
「じゃあ、あんたは?」
「すぐ帰ります。明日、朝から現場で」
会話は薄かった。テレビは消してある。雨音だけが窓ガラスに当たって、一定のリズムで続く。HDDをカバンに入れながら、ふと視線が彼女の手元に行った。指が細い。カップの取っ手を持つ指の骨が浮いて、関節が白く見える。そこだけが若い頃のままみたいに見えて、目が離せなかった。
「社会人、慣れた?」
「まだ。朝、早いのがきついです」
「うちの子も最初は毎朝ぐずぐずしてたよ。すぐ起きなくて」
彼女は笑った。笑うと、目尻の小さな皺が増える。そこで一回、視線が合って、私の喉の奥が詰まる。焦点を逸らすみたいに、私はカップを持ち上げて熱いのをもう一口。舌先がちょっと痺れた。彼女は立ち上がって、カウンターに行き、タオルでカップの水滴を拭いた。肩にかけていたカーディガンが片方だけ落ち、二の腕の肌が見えた。色は白いけど、血管が薄く透けていて、体温のある色だった。
そのまま、何も起きないのが普通だ。でも、起きたのは別のことだった。
「ねえ」
彼女がカウンター越しに呼んだ。声が小さかった。雨音で一部が消えるくらいの小ささ。
「はい」
「今日、涼がいないから、変に気を遣わなくていいよ。少し休んでいけば?濡れてるでしょ」
彼女はタオルをこっちに投げた。受け取ったタオルは柔らかくて、洗剤の匂いが強い。私は前髪と首筋を拭いた。タオルを戻しに立った時、足元のラグが濡れているのに気づいた。私の靴下の水分が移ったんだと思った。
「ごめんなさい。ラグ、濡らしました」
「ああ、いいの。すぐ乾くよ」
彼女はラグの端をつまんでめくり、下に手を入れた。手の甲に水滴がついた。私はその手元から目を離せず、指の動きを追った。指先の丸い爪、薄いピンク。動作はゆっくりで、身体の重心のかけ方が落ち着いている。若い人の慌ただしさがない。その視線のまま、私の喉が鳴ったのを、自分でも聞いた。
「……疲れてる?」
「はい」
正直に言った。彼女は立ち上がって、タオルで自分の手を拭いた。その時、彼女の首すじから耳たぶにかけて汗が細く伸びているのが見えた。気温は高くない。たぶん、さっきまで台所で火を使っていたのと、湿気のせい。
「肩、こってるでしょ」
そう言って、彼女は近づいた。私が座ったままだから、彼女の腰の高さが視界の中心に来る。部屋着の布地が薄くて、ゴムのあとがうっすら出ている。彼女の指が私の肩に触れた。温度ははっきりしている。親指が鎖骨の内側に入って、ぐっと押した。痛い。けど、そこだけ血が通う感じがした。
「力、強いほうがいい?」
「大丈夫です」
彼女の指の動きに、身体が反応していた。背中が自然に丸くなり、息が深くなった。彼女は指の位置を少しずつずらし、肩甲骨の内側を押した。皮膚が引っ張られて、Tシャツが擦れる音がした。押されるたびに、わずかに声が漏れる。多分、彼女には聞こえたと思う。彼女の息が近くなる。シャンプーの匂いの奥に、皮膚の匂いがある。雨の日の、湿った体温の匂い。
「……上手いね、反応」
彼女が低い声で言った。意味は曖昧なのに、体はその言葉だけで熱くなる。私は返事ができず、喉の奥が勝手に動く。肩を押す指が、少しだけ長く止まった。止まると、逆にそこが熱を持ったみたいに感じる。
「ごめんね。変な言い方した」
彼女が笑って、手を離した。肩から急に重さが消えて、私は深く息を吐いた。視界が少し明るくなる。彼女は私の前に回り込み、目の前の椅子に座った。膝と膝が近い。彼女の膝に、雨の跡が細く残っている。
「こんなこと、言うべきじゃないんだろうけど」
そこでいったん声が切れて、彼女は視線を落とした。私のカップの縁に指で触れて、熱を確かめるみたいに少し押した。
「あなた、涼と同い年でしょ。なのに、目が全然違う。まっすぐ見てくる。危ないと思うくらい」
その言葉が胸の真ん中に刺さった。私は笑うでも、否定するでもなく、ただ彼女の指の動きを見ていた。細い指。爪の丸さ。関節の線。ゆっくり息を吸うと、胸がカップの湯気を吸い込んで、温度が喉に落ちた。
「……危ないって?」
私が訊くと、彼女は顔を上げた。目の奥に光が少しだけ入って、濡れたみたいに見えた。
「境界線が曖昧になる。大人同士だって、壊れる時は一瞬だよ」
言葉のあと、沈黙が落ちた。雨音だけが続く。私は首を縦に小さく動かした。自分でも理由はわからない。けど、その動きが合図になった気がした。彼女は椅子を少し引いて、距離を詰める。膝が触れた。布越しの温度は高くないけれど、触れている部分だけはっきりわかる。心臓の鼓動が速くなる。喉が乾く。舌が上顎に張りつく。
「してほしくないなら、今のうちに言って」
彼女の声は落ち着いていた。私は一度、目を閉じて、開いた。首を横に振らなかった。彼女が手を伸ばして、私の頬に触れた。指先は少し冷たい。冷たいのに、触れられた皮膚がそこだけ熱を帯びる。彼女の顔が近づく。息が当たる。薄いコーヒーの匂いと、雨の匂い。唇が触れた。柔らかい。押し合いはない。軽く触れて、離れた。すぐ、もう一度。今度は長い。上唇が重なって、角度を少し変える。彼女の手が後頭部に回って、髪をなでた。頭皮が動いて、ゾワっと背中が冷えた。
「……大丈夫?」
「はい」
声は自分のものに聞こえない。少し低くて、喉の奥で出た。彼女は立ち上がった。私の手首を軽く握って、廊下へ。足音は静か。ラグからフローリングに変わる音が小さく鳴る。涼の部屋の前を通り過ぎる。ドアは閉まっている。視線が吸い寄せられそうになって、私は前を向いた。
寝室のドアが開いた。中は暗い。彼女がスイッチを入れると、柔らかい暖色の明かりが点いて、ベッドの白いシーツが見えた。枕が二つ。片方は膨らみが少ない。ベッドの脇の小さな棚に、読書用のライトとメガネケース。メガネケースの金具が光る。部屋着の裾が揺れて、彼女がベッドに腰を下ろした。私は靴下を脱いだ。床が冷たい。指先が冷えて、少し痛い。彼女はベッドの端をぽんと叩いた。私は座った。距離は拳一つ分。彼女が手を伸ばして、私のTシャツの裾をつまんだ。
「脱がせてもいい?」
私は頷いた。彼女の指が裾を持ち上げ、腹に布が滑る。空気が触れる。鳥肌が立つ。頭の上をTシャツが通る時、髪が引っ張られて、首が少し痛い。Tシャツが床に落ちる音は小さい。彼女の視線が胸をなぞる。視線は触ってないのに、触られたみたいに感じる。彼女が自分のカーディガンを脱ぐ。肩が出る。部屋の空気がその肌に触れて、光が薄く反射する。ブラの線が部屋着の下に透ける。色は落ち着いたベージュ。
彼女の手が私の胸に触れた。指の腹で輪を描くみたいに動く。肺が大きく膨らんで、吐く息が熱くなる。指がゆっくり下に降りて、腹筋の上を通り、ベルトの上で止まる。金具が冷たい。彼女が視線で「いい?」と聞く。私は頷く。ベルトの穴からピンが抜ける音が小さく鳴る。ジッパーを下ろす音ははっきり。彼女の指が内側に入って、ゴムを引く。布が皮膚から離れて、空気が触れる。脈がそこに集中する。彼女は急がない。布がゆっくり下がり、足首に集まる。私は片足ずつ抜いた。足の甲が冷える。
「寒くない?」
「大丈夫です」
言葉より先に、彼女がベッドに膝を乗せ、私の腰に跨った。体重がかかる。マットレスが沈む。彼女の手が私の頬を両側から挟む。視線が近い。彼女の瞳に私が小さく映る。彼女はもう一度キスをした。今度は深い。舌が触れた。濡れている。温度は高くないのに、触れたところだけ熱くなる。舌先が歯茎の上をなぞる。頭の後ろがしびれる。彼女の胸が私の胸に触れる。柔らかい。ブラのホックが背中側で当たって、彼女が一度体を起こし、背中に手を回す。カチッと小さな音。肩からストラップが落ち、布が肌から離れる音。乳首の先が空気に触れて、小さく尖る。視線を上げたら、彼女は私を見て、「見ていい」と小さく言った。私は息を飲んだ。
吸い寄せられるみたいに手が動いた。彼女の胸に指先が触れる。皮膚は柔らかいけれど、乳輪の縁は少し硬い。指で軽く押すと、彼女の喉がかすかに鳴る。彼女の腰が小さく動いた。私の指が乳首を挟むと、彼女は息を吸い、吐く時に短く声が漏れた。私はその声で我に返って、手を止めた。彼女は首を横に振らなかった。むしろ、腰をさらに近づけた。布一枚を挟んで、彼女の体温がはっきり伝わる。
「コンドーム、ある」
彼女が短く言って、ベッドサイドの引き出しに手を伸ばした。箱が触れる音。私は息を整えようとしたが、胸が上下するスピードは変わらない。喉が渇いて、舌が上顎に貼りつく。彼女は箱を開け、銀色の小袋を取り出した。私の手に押し付ける。指に薄いゴムの感触。私は頷いて、袋を破る。中のリング状のゴムが指にかかる。彼女の視線が私の動きを追う。私は息を吸って、ゆっくりと装着した。ゴムが肌に沿って伸びる感触。根元まで下ろす。空気が少し入ったところを指で抜く。呼吸が浅くなる。彼女は頷いた。彼女の手が自分の部屋着の紐に触れて、ほどく。布が腰から落ちる。湿った音。彼女は膝を開き、位置を調整する。私の視界に彼女の下腹部と太ももが入る。濡れているのが見えて、喉が鳴る。匂いが空気に混ざる。甘くて、少し酸っぱい匂い。
「入れるね」
彼女がそう言って、私のものを自分の手で導いた。先端が柔らかい場所に触れる。温度が違う。表面が滑って、先がわずかに沈む。彼女が息を吐き、腰を少しずつ下ろす。囲まれる。圧が増える。私は腰を動かさず、呼吸だけに集中した。彼女の手が私の胸に置かれる。爪が軽く当たる。彼女の膝がマットレスを押して、さらに腰が下りる。包まれる感触が深くなる。根元まで達した時、彼女が小さく肩を震わせた。中の熱がはっきりわかる。彼女の腹筋が固くなり、すぐにゆるむ。
動き始めは彼女だった。腰が小さく上下する。動くたびに、中の圧が変わる。摩擦は強くない。濡れが十分にある。私は彼女の腰の動きに合わせるだけにした。彼女の呼吸が浅くなる。肩が上下する。髪が頬にかかる。私は手を彼女の腰に置いた。皮膚が汗で少し滑る。指で骨の出っ張りを感じる。そこに力を入れると、彼女の動きがわずかに大きくなった。音が増える。マットレスの軋み、濡れた音、彼女の喉の音。雨音に混ざって、一定のリズムが崩れる。
「いい?」
彼女が聞く。私は言葉にならない声で返す。彼女は笑って、動きを少し速くした。浅いストロークと深いストロークが交互になる。深い時、中の壁が根元まで当たって、彼女が短く息を止める。私は腰を上に押し上げた。彼女の背中が反る。胸が近づく。乳首が顔の近くに来る。私は口を開けて、軽く咥えた。舌先で触れる。彼女の腹筋が固くなり、腰が止まる。彼女の指が私の髪を掴む。力は強くない。けど、確かに掴む。私は舌を少し強く押しつけ、歯でやさしく引いた。彼女の腰が小さく震え、声が漏れた。
彼女は体勢を変えた。私の肩を押して仰向けにし、膝をついたまま角度を調整する。中の圧が変わる。浅い位置で敏感なところに擦れ、彼女が息を一つ詰まらせる。私は腰を上げ、角度を合わせる。彼女の指が私の胸を押す。テンポが合って、動きが一定になる。彼女の声が規則的に漏れる。私は片手で彼女の腰を支え、もう片方で彼女の下腹部の少し上に触れた。小さく丸い骨の上。そこを軽く押すと、彼女の声が跳ねた。動きが速くなる。中の収縮が強くなる。熱が上がる。私は呼吸をコントロールしようとしたが、喉の奥が勝手に震える。腹筋に力が入る。限界が近い。
「……出していい?」
私が言うと、彼女はすぐに頷いた。目は私を見ている。頷きは大きくないけど、確かだった。私は腰をさらに押し上げ、奥で止める。脈が早くなって、視界が少し白くなる。彼女の中が強く締まる。私は息を吐き、震えながら、コンドームの中に出した。彼女が腰を止め、背中を丸める。喉から低い声が漏れる。雨音が遠くなる。心臓の音だけが耳の中で大きい。
しばらく動かずにいた。彼女の呼吸が落ち着くまで、私は手を彼女の背中に置いた。汗で湿っている。背骨の上を指でなぞる。彼女は肩で息をして、ゆっくりと身体を起こした。中から私が抜ける時、わずかな空気の音がした。彼女はベッドサイドからティッシュを取り、コンドームの根元を持って、外してくれた。口を結んで、ゴミ箱に捨てる。私は深く息を吐き、腕で顔を覆った。前腕に自分の汗の匂いがついている。皮膚と洗剤と雨の匂いが混ざって、部屋の匂いになっていく。
「ねえ」
彼女が横に座って、私の髪を撫でた。指がゆっくり動く。私は腕を下ろし、彼女を見た。目は赤くない。泣いてない。落ち着いている。ただ、口角が少し下がっている。
「全部、わかってる?」
「はい」
「後戻りできないことをした。私も、あなたも。大人だから、選んだ。責任も、選んだ」
言葉は固いのに、声は柔らかい。私は頷いた。胸の奥がきゅっと縮む。罪悪感ははっきりある。でも、後悔ではない。彼女は立ち上がって、シャワーの方向を指さした。
「タオル、洗面所。熱いの出るから」
私はうなずいて、ベッドから降りた。足が少しふらつく。洗面所に行くと、鏡に自分の顔が映った。頬が赤い。目の下にうっすらクマ。水を出して温度を上げる。手に当てると、熱い。顔を洗って、タオルで拭く。タオルは柔らかい。洗剤の匂いが新しく鼻に入ってくる。シャワーを浴びるほどの時間はない気がして、私は戻った。
リビングに戻ると、彼女はカーテンの隙間から外を見ていた。雨は弱くなっていた。時計は22時を少し過ぎている。涼が帰るには、まだ早い。彼女が振り向く。視線が合う。彼女は口を開いたが、すぐ閉じた。代わりに近づいてきて、私の手を取った。指と指を絡める。体温が重なる。彼女の手は温かい。私はその温度で少し落ち着いた。
「もう一度、来る?」
「はい」
言ってから、胸が痛くなった。彼女は目を閉じて、短く頷いた。
玄関で靴を履く時、彼女は私の肩に手を置いた。軽い。振り返ると、彼女は笑っていた。笑顔は大きくない。でも、確かだった。私はドアを開けた。外の空気は湿っている。階段を降りる。一段降りるごとに、足の裏に冷たさが戻る。傘を開くと、薄い雨の粒が布を叩いた。音は弱い。歩き出す。背中に視線がないのを確かめて、私は息を吐いた。吐いた息が白くはならない温度。
家に帰って、風呂場で服を脱いだ。皮膚に残った匂いが、湯気で少し濃くなる。洗っても完全には消えない感じがして、指先で首筋を何度もこすった。鏡の自分が、誰か別の人みたいに見える。ベッドに入ると、まぶたの裏に彼女の指の感触が残る。胸の前で交差した彼女の腕、腰の骨、息の速さ。罪悪感は重い。でも、体はそれでも彼女を思い出して反応する。大人同士だからこそ、選んだ。選んだ以上、引き受ける。
翌朝、涼からメッセージが来た。「HDDありがと」。短い文。私は「どういたしまして」とだけ返した。指が震えるほどではない。けど、軽く痺れる。仕事に向かう電車で、窓に自分の顔が映る。目の奥の明るさが、昨日よりも強い。境界線は、確かに一度壊れた。壊したのは、彼女と私。大人だったからこそ、はっきり選んだ。
その夜、彼女からメッセージが来た。「雨、やんだね」。私は、「はい」と返した。その一文字に、昨夜の全部が入っている気がした。入れたのは私だけじゃない。彼女の中にも、同じ温度で残っている。次に会う日付はまだ決めていない。けど、決められる。そういう関係になった。逃げないで、選ぶ。体が熱を覚えている。指先が、その時だけ少し震える。
結局、禁断という言葉は、他人のためのラベルだった。中にいたのは、私と彼女の体温だけ。触れたところの温度と、雨の匂いと、唇の重なり。その全部を、私は消さない。消せない。消す気もない。