地方の駅前。イベント会場の搬出口から、人とケースが引いていく。22時過ぎ。湿った風。荷台の金具がぶつかる音が続く。私はスタッフ証を首から外して、胸ポケットに入れる。手の甲に黒いインクが少しついている。ステージ裏でタイムコードを書き直した時の跡。指先に紙の粉っぽさが残っている。
彼女は黒いキャップ、薄いネイビーのパーカー。顔は出さないライバー。今日のイベントも、ステージでは声だけ。サイン会も、アクリル板越しに手をふるだけ。物販が長引いたせいで、搬出が押した。終電は逃した。主催の車は満席。私は宿の手配をしていたので、近くのビジネスホテルの予約を一つ増やした。フロントは24時間対応。部屋は小さいが新しい。
移動中、彼女は口数が少ない。歩幅が一定。信号で止まるたびに、キャップのつばを人差し指で直す。私が「荷物、持ちますよ」と言うと、「自分で持つ」と短く返す。肩からかけたトートの口が固い。中には機材ではなく、私物。化粧ポーチ、充電器、ノート、薄いスウェット。キーホルダーの金属が歩くたびに小さく鳴る。
ホテルに入る。自動ドアの風。冷房が強い。鼻の奥が冷える。フロントの女性が「おふたりですか」と言った後、少し間を置いて、「別々のお支払いでよろしいでしょうか」と続ける。彼女が「まとめる」と言う。私は財布を出しかけて手を止める。鍵が二枚、透明のカードケースに入って渡される。エレベーターの前で、彼女がカードを持った手を少し上げた。「一緒でいい?」
中は鏡が三面。自分の顔が三つ。どれも少し疲れている。彼女はマスクを軽くつまんで、耳から外す。素顔ははっきりしている。配信の声より低い。エレベーターが上がる音は静か。自分の喉の音のほうが目立つ。三階で止まる。カーペットの匂い。新しい建物の接着剤の匂い。ドアのランプが緑に変わる。鍵を差し込む。カチ、と音。ドアが重い。
部屋は白い。窓は小さい。ベッドはセミダブル。シーツは固い。枕は低い。壁に薄いグレーのプリント。正面の壁にテレビ。机は小さくて、四角い椅子。空気清浄機のランプが青。エアコンの吹き出し口から、冷たい風。彼女はトートをベッドの端に置く。私もリュックを机の足元に置く。二人分の荷物で足場が狭くなる。靴を脱ぐ。床は冷たい。靴下の裏に細かいほこりがつく。
「おつかれ」と彼女。声は小さい。私は頷く。冷蔵庫を開ける。ペットボトルの水が二本。自販機で買ったスポーツドリンクが一本。キャップをひねる音。水を口に入れる。冷たい。舌が動く。「ありがとう」と彼女が言う。彼女が手を差し出す、短い爪。私がボトルを渡すと、彼女は口をつけて、少しだけ飲んで、喉をさする。鎖骨が動く。
沈黙。外は静か。遠くの道路の音が薄い。エアコンの送風音。廊下のカートのタイヤ音が一瞬通る。私はスマホを機内モードにする。机に裏返して置く。画面が光らない。「私も」と彼女。通知の振動は止まる。音のない空間。身体の中の音だけが残る。呼吸、胃の動き、喉の鳴り。
「シャワー、先にいい?」と彼女。私は頷く。彼女はトートからスウェットとTシャツを取り出す。手触りの柔らかい生地。洗面所のドアが閉まる。換気扇が回る。水の音。カーテンがこすれる音。ボトルの蓋を開ける音。シャンプーの匂いがひろがる。私はベッドの端に座る。膝を伸ばして、片足ずつ靴下を脱ぐ。足の裏が少し汗ばんでいる。シーツの表面がひんやりする。
シャワーが止まる。ドアが開く。湯気。彼女は髪をタオルで押さえながら出てくる。スウェットの上下。大きめのTシャツ。足首が細い。爪に色はない。目の下のクマが薄くなって見える。私はタオルと着替えを持って洗面所に入る。鏡に汗の跡。熱い水を出す。肩にかける。筋肉が緩む。体から今日のイベントの粉っぽさが落ちる。ボディソープの匂いが変わる瞬間がわかる。泡が薄くなっていく。水を止める。耳の中に少し水が残る。頭を傾けて抜く。
出ると、彼女はベッドの上で体育座り。テレビはつけていない。窓際のカーテンが少し開いている。外の看板の光が線になって床に落ちている。私はタオルで髪を拭きながら、カーテンを閉める。遮光の重い布。部屋が白い灯りだけになる。明るいが、外からは見えない。安心する。心臓の鼓動がゆっくりになる。彼女が、ベッドの端を手のひらで叩いた。「ここ」
私は座る。距離は50センチくらい。ベッドが少し沈む。沈んだ分だけ身体が近づく。彼女が横目でこちらを見る。「さっきの現場、助かった」と言う。私は「仕事です」と返す。彼女は目を細める。「それでも助かった」その言い方は乾いているのに、体温がある。
沈黙がもう一度来る。今度は長い。私の喉が動く音が、はっきり聞こえる。彼女が手を伸ばす。私の手の甲に触れる。指先は冷たい。少しだけ震えている。私は彼女の手の甲を返す。手のひらは温かい。汗はない。ゆっくりと指が絡む。彼女の呼吸が浅くなる。私は「確認」をする。「ここで、したい?」彼女は短く頷く。その頷きは小さいが、迷いはない。「避妊する?」と私。彼女は頷く。「もちろん」
トートのポケットの小さいチャックを開ける音。彼女が箱を出す。ドラッグストアでよく見る銀色のパッケージ。机に置かれた箱がカラカラと軽い音を立てる。私は頷く。机から一枚取る。パッケージの縁を指で切る。中の丸い畳まれたものを端でつまむ。粉っぽい。ゴムの匂い。ベッドの端に置く。
キスは、近づく前に目で確認する。彼女の視線が落ちて、また戻る。私はゆっくり顔を近づける。唇に触れる前に、彼女が少し肩を上げる。触れた。やわらかい。味はさっきの水。彼女の手が私のシャツの裾をつまむ。布が少し引かれる。私は片手で裾を持ち上げる。シャツを脱ぐ。空気が肌に当たる。ひんやりする。彼女はTシャツを両手でつまんで、上に上げる。首のところで一瞬引っかかる。髪が乱れる。視線が合う。笑う。声は出ない。
スウェットのウエストゴムに指を入れる。彼女が腰を少し浮かせる。生地がするっと動く。太ももの肌。細い。温かい。体毛は薄い。私は膝でベッドを移動する。マットが軋む小さな音。彼女の手が私の腰のベルトに触れる。バックルの金属が鳴る。私は片手で外す。ベルトが抜ける時の布の摩擦音。ファスナーの金属音。下着のゴムが肌に線を作る。指でなぞる。彼女の喉が鳴る。
触れ方は、最初は表面だけ。彼女の太ももの外側、膝、足首、足の甲、ふくらはぎ。どこも温度が違う。足首が一番冷えている。そこから上に戻る。内側は少し汗ばむ。指先に湿り気がつく。彼女の腹筋が薄く動く。息が浅くなる。肩が上がる。私は耳の後ろに顔を寄せる。シャンプーの匂い。皮膚の匂い。すべてが今日の温度に変わっている。彼女が小さく言う。「入れる?」
私は頷く。コンドームを手に取る。装着。粉っぽさが指先につく。根元まで下ろす。彼女はベッドの中央に滑っていく。膝を曲げる。足を少し開く。私は位置を合わせる。手で導く。入る直前、彼女が目を強く閉じる。私は止まる。「大丈夫?」彼女は目を開けて頷く。「いい」呼吸が早い。私はゆっくり押す。入口で抵抗がある。彼女が息を吐く。筋肉が緩む。入る。温度が上がる。包まれる。彼女の手がシーツをつかむ。シーツの布がきしむ。
動く。深くならないように、浅く、一定。彼女の目が私を見て、すぐ閉じる。喉が鳴る。声は抑えている。脚の内側が私の腰に当たる。汗が出る。背中に汗がたまる。空気清浄機の青いランプが、視界の端で点いている。音は一定。二人の呼吸だけがずれる。そのずれが少しずつ合う。彼女が「もうちょい」と言う。私は角度を少し変える。彼女の腹筋が反応する。爪がシーツに沈む。「そこ」
長く続ける。数を数えない。時間の感覚が薄くなる。カーテンの隙間から、外の光が少し変わる。看板の点滅がゆっくりになる。彼女の額に汗が光る。私は汗を指の甲で拭う。彼女が笑う。声は小さい。「優しいね」私は返事をしない。動きを止めない。彼女のかかとが私の腰に軽く当たる。リズムが合う。身体の中で圧が高くなる。私は息を止める。彼女が「中はダメ」と静かに言う。私は頷く。抜くタイミングを決める。速度を落とす。彼女が短く息を吸う。私は抜く。コンドームを押さえる。外に出す。手で処理する。ティッシュ。ゴミ箱。手を拭く。手の甲に汗が残る。水とゴムの匂いが混じる。
しばらく、動かない。彼女は横向きになって、呼吸を整える。私は背中に手を置く。背骨が一本ずつ指に触れる。細い。体温は高い。脈が速い。私はベッドから降りて、水を取る。キャップをひねる音。彼女に渡す。彼女は起き上がらずに口をつける。喉が動く。小さく咳をする。私は笑う。彼女も笑う。音は出ない。共有する空気が軽くなる。
二回目は、間をあけてから。時間は見ない。体のどこかが再び熱くなるときが来る。彼女は顔を枕に半分埋めて、声が小さくなる。私は耳元で「いい?」と聞く。彼女は頷く。今度はゆっくり始める。途中で止める。彼女が焦れて、腰を少し動かす。それを受けて、また合わせる。同じ場所を刺激しない。少しずらす。彼女が「そこじゃない」「そこ」と短い言葉で指示する。そのたびに、腹筋が反応する。太ももが震える。汗が増える。私の呼吸が荒くなる。彼女の鼻から出る息が熱い。頬に当たる。
三時を過ぎたころ、空調の風量が一段下がる。部屋の音がさらに静かになる。彼女の声がよく聞こえる。低い。抑えている。私はそれを壊さないように、一定で続ける。長く。彼女は一度、二度、身体を固くして、ゆるめる。シーツの皺が増える。ティッシュの箱が半分になる。水のボトルが空になる。体から匂いが出る。汗とシャンプーとゴムと紙。全部、この部屋の匂いになる。
四時。カーテンの下の線が少しだけ明るくなる。私はシャワーを短く浴びる。彼女はベッドの上で横向き。目を閉じて、呼吸は落ち着いている。起こさない。私はタオルで体を拭く。髪を手櫛で整える。鏡に映る自分の顔は、疲れているのに、目が冴えている。洗面所のライトを消す。部屋が白い灯りだけになる。私はベッドに戻る。シーツの冷たい部分を探して、うつ伏せになる。彼女の足が私の足に触れる。無意識に近づける。皮膚と皮膚が触れ合う温度になる。
五時半。アラームは鳴らさない。彼女が先に起きる。枕に顔を押し付けたまま、片手でトートを探る。携帯を取り出す。画面の光で顔が白く見える。通知は静か。彼女は機内モードを解除しない。しばらく画面を見て、また伏せる。「朝だね」と彼女。私は頷く。喉は乾いていない。体の奥に温度が残っている。
六時。チェックアウトの準備。彼女はスウェットの上からパーカー。キャップ。マスク。声が小さくなる。ベッドを整える。シーツの皺を手で伸ばす。ゴミはまとめる。ティッシュの空箱を潰す。空のボトルを袋に入れる。空気清浄機を切る。青いランプが消える。部屋が静かになる。鍵を机から取り、カードケースに戻す。ドアを開ける。廊下の空気は冷たい。足音が響く。
ロビー。夜勤のスタッフと朝のスタッフが交代するタイミングらしく、カウンターの奥で二人が小さく会釈をしている。自動ドアの外に朝の湿気。看板が消えている。駅までの道は人が少ない。信号はすぐ青になる。彼女は横断歩道で立ち止まり、私の方を向く。目は眠そうだが、はっきりしている。「ありがとう」と言う。私は「こちらこそ」と返す。二人とも、それ以上は言わない。名前は呼ばない。連絡先は交換しない。画面は暗いまま。彼女が先に歩き出す。キャップのつばが揺れる。背中はまっすぐ。角を曲がって、見えなくなる。
私は反対方向へ歩く。足の裏が温まっていく。コンビニの自動ドアが開く。コーヒーを買う。湯気が顔に当たる。熱い。口の中に苦味。体が起きる。駅のホームで、最初の電車を待つ。薄い朝の風。ホームの端に立つ。昨夜の温度が、皮膚のどこかに残っている。触れられた場所が、触れられたままになっている気がする。電車が入ってくる。ドアが開く。乗る。席は空いている。窓に映る自分の顔。目が静かだ。スマホはまだ機内モード。膝の上に置く。電車が動く。昨夜のことは、どこにも残らない。けれど、体は覚える。朝になっても、消えない。名前のない記憶として、残る。