車の中の私と、隠しきれない匂い

私の人生は、誰もが羨むような、完璧なものだった。優しい夫、可愛い子どもたち。何不自由なく、満たされているはずだった。でも、夜が来て、家族がみんな寝静まった後、私の中には、どうしても埋められない、深い空洞が残った。

夫との間に、愛がないわけじゃない。でも、いつからか、触れ合うことがなくなってしまった。寂しさが、毎日少しずつ、私の心を蝕んでいく。誰にも言えない、この虚しさ。

そんな私のささやかな逃げ場が、車の中だった。

夜、家族が寝てから、私はこっそり鍵を持って、車に乗り込んだ。エンジンのスイッチは入れない。ただ、リクライニングシートを倒して、自分の好きな音楽を小さな音で流す。車の中は、私だけの、誰にも邪魔されない秘密の空間だった。

そこで、私は、誰もいない部屋ではできなかったことをした。

シートに体を沈めて、目を閉じる。夫ではない、誰かのことを想像する。優しく私の体を撫でてくれる手。囁いてくれる声。想像の中で、私は、誰よりも自由で、幸せだった。自分の指が、太ももをそっとなぞり、そして、私の一番大切な場所に触れる。恥ずかしさなんて、もう何もなかった。ただ、自分の欲求に、身を任せるだけだった。

指先が触れるたびに、私の体は、微かに震えた。吐息が漏れて、車内の空気に混じっていく。車のシートに染み込んでいく、私の汗と、甘い匂い。それは、誰にも見つからない、私だけの秘密の印だった。

でも、その秘密は、いつも私を不安にさせた。

日中、子どもたちの習い事の送り迎えで、車を使う。夫を会社まで送っていくこともある。助手席に誰かを乗せるたびに、私の心臓はドクンと大きく鳴った。「もしかして、気づかれるんじゃないか?」と、私はいつもヒヤヒヤしていた。

彼氏の車に乗った女の子の話を、雑誌で読んだことがある。助手席のシートに、甘い香りが染み付いていて、それが原因で、彼氏が浮気を疑った、なんて記事を読んだ時には、全身から血の気が引く思いだった。

私は、車の中の匂いを消すために、何度も芳香剤をスプレーした。窓を開けて、換気もした。でも、どうしても、奥の方に染み付いた、あの匂いが消せないような気がした。

夫が、助手席のシートに座った時、私は、いつも以上に緊張した。彼が何か言うたびに、私の心臓は、喉元から飛び出しそうだった。「あれ?なんか、甘い匂いがしないか?」なんて、冗談でも言われたら、私はどうすればいいのだろう。

誰も知らない、孤独な時間と、満たされない欲求。車の中は、私にとっての救いだった。でも、そのささやかな幸せは、いつも「誰かにバレるんじゃないか」という不安と隣り合わせだった。私の孤独な秘密は、車のシートに染み付いた匂いと共に、私の心を、毎日少しずつ締め付けていった。