帰路10分、洗面所5分、彼女のパンティーで息が詰まるまで

土曜の夕方、彼女のアイコンから通話が鳴った。画面の上に「今、家?」とテキスト。私は「外。近い」と返した。ほんとは家にいたけれど、玄関の靴を履きながら階段を降りた。空は薄い雲で、湿度が高い。彼女の住むマンションまで徒歩で十五分。歩き始めると、汗が背中に薄くにじむ。

「ドア、暗証番号変えてない。入ってきて、すぐ洗面所」
通話の向こうの彼女の声は低い。背後で乾燥機が回る音がした。私はうなずいた。「うなずきじゃ伝わらないでしょ」と彼女が笑う。「はい」と口に出す。信号が青に変わる。走らない。歩幅だけ少し広くする。マンション前に着くと、オートロックの前に小さな観葉植物。濡れた土の匂い。エントランスの冷たい空気が汗を冷やす。エレベーターの鏡に、自分の顔。頬が少し赤い。

暗証番号を押す。カチッと小さな音。玄関は静かで、彼女の靴と、男性ものの革靴が並んでいる。旦那の靴はきれいに磨かれている。土曜なのに外出中らしい。私は靴を脱いで、指示どおりに右手の洗面所へ。扉を開けると、白い照明。洗濯機の上に、畳まれていない洗濯物が一山。タオル、Tシャツ、薄いストッキング。香りは柔軟剤と、乾いた皮膚の匂い。

「着いた?」
「はい」
「じゃ、カゴの下のほう。薄いグレーの、レース。触って」
私は山の下に手を入れ、指先で布の端を探した。指に引っかかるレース。引き上げると、薄いグレーのパンティー。前面はレースが重なって、クロッチ部分だけ生地が厚い。指先でその部分を押すと、ほんの少し硬さがある。乾ききっていない。鼻を近づけると、柔軟剤の奥に、体温の残り香があった。甘くて、少し塩っぽい匂い。

「それ、昨日の」
彼女の声が少しだけ小さくなる。乾燥機の回転が一瞬止まり、次の回転でまた音が戻る。
「どうしたい?」
彼女に聞かれて、喉の奥が鳴った。私は言葉が出ず、代わりに吸い込む息が強くなる。
「ちゃんと、言って」
「匂い、嗅ぎたいです」
「うん。じゃあ、両手で包んで、鼻に押し当てて。ゆっくり吸って」

言われた通りにする。両手でレースを包み、鼻と口を覆う。布の湿りが肌に広がる。息を吸うと、クロッチの部分から強い匂いが入ってくる。生乾きではない。昨日、直接肌に触れていた匂い。喉が熱くなる。身体が前に傾く。洗面台に片手をつき、バランスを取る。指にレースの感触。縁の糸が皮膚に当たって、細かい刺激が残る。

「声、出して」
「……うん」
「違うでしょ。私に、どう感じるか、話しながら吸って」
「強い。ここ、真ん中、甘い匂い。ちょっと塩……汗の感じ。息が、厚い」
自分の声が震える。鼻から吸って、口から吐くと、布が湿っていく。体の奥が反応して、下腹部が詰まる。ベルトが当たって痛い。私は片手でバックルをはずした。金具の音。ジッパーが降りる。布の内側に空気が入る。冷たい。

「今、どこ?」
「洗面所。ズボン少し下げた」
「見たかったな」
彼女の声は笑っていない。呼吸が少し速い。向こうでも、何かを脱いでいる音が小さくした。「旦那さんは?」と聞こうとして、飲み込む。代わりに彼女が言う。「さっきLINE。帰路十数分。だから、五分」

時間が急に体の中に入ってくる。五分。匂いを吸い続けながら、私の脳はカウントを始める。パンティーを鼻に押し当てたまま、片手で自分を外に出す。空気に触れる。息が短くなる。布越しの匂いが濃くなる。

「舌、使って」
「舐め、てもいい?」
「いい。真ん中だけ。歯は立てないで」
私はパンティーを少しずらして、クロッチの縫い目のあたりを舌で触れた。乾きかけの味がする。塩気が少し。唾液が滲んで、布が柔らかくなる。舌を押し当てて、ゆっくり左右に動かす。鼻に近づけると、匂いがさらに強くなる。脳が熱くなる。足の内側が痺れる。

「指、一本、パンティーの中に差し込んで、布の裏を撫でて」
「わかった」
縁のレースを少し開き、指先を内側に入れる。裏地の縫い目が指腹に当たる。そこに指を押し付けると、わずかに硬さが残っている場所に触れた。昨日の湿りの痕跡。指先で円を描く。自分の喉から低い声が漏れる。

「いいね。そのまま、鼻に押し付けて。名前、呼んで」
彼女の名を短く呼ぶ。音に出すと、身体の奥の圧が跳ねる。指が布の裏に沈む。私は腰を前に押し出し、洗面台の角に膝を当てた。痛い。けれど、痛みが現実を繋ぎ止める。

「あと三分」
通話の向こうで、彼女が息を吸う音。私はパンティーの匂いに顔を埋めたまま、腰を小さく動かした。自分の手の動きは速くしない。呼吸のリズムに合わせて、一回ずつ。パンティーから外した指先に、唾をつけ、戻す。布がさらに柔らかくなり、匂いが濃くなる。頭の中で、彼女の股間の形をなぞる。昨日の温度が、布に移っていると信じる。信じるだけで、体が反応する。

「聞いて。今、ベッド。スカート、上げた。タイツ、片足だけ脱いだ。パンティーは履いたまま。クロッチ、ずらしてる。指、一本。あなたの名前、噛んでる」
彼女の声が低く震える。言葉の一つ一つが、こっちの指先の動きを増幅させる。私の視界が少し霞む。洗面台の鏡が曇る。鼻に押し付けた布が、呼気で湿る。匂いが変わる。私の唾と彼女の残り香が混ざって、重い匂いになる。

「二分」
心臓が速くなる。私はパンティーの中央を舌で押し上げ、濡れた部分を吸った。空気が薄くなって、頭が熱い。太腿が震える。彼女が電話の向こうで短く声を漏らす。「そこ、吸わないで」と笑い混じりに言う。私は舌を離し、鼻だけを布に埋めて呼吸した。片手は腰。もう片手は自分。テンポは変えない。速くしない。速くしたら終わる。

「一分。出す時、私の名前、ちゃんと言うこと。出し終えたら、クロッチで、拭く。残さない。証拠は、ゼロ」
私は大きく頷いたが、彼女は見えない。「はい」と短く言う。喉が渇く。水は飲めない。パンティーの匂いが水の代わりになる。胸の前に布。顔を覆う。視界が暗くなる。暗くなると、匂いだけが残る。彼女の体温が布に残っているわけじゃない。それでも、そこにいるように感じる。

足音のない時間が続き、突然、彼女が「今」と言った。合図になった。私は腰を強く前に押し出し、深く息を吐いた。喉が鳴る。脳の奥が白くなる。手の中が震える。パンティーを口元から外す余裕はない。彼女の名前を短く、はっきり言う。言いながら、波が二度、三度。終わるまで、手を止めない。終わったあと、指示のとおり、クロッチで拭う。布に熱が移る。縁のレースが皮膚に当たって、現実に戻る。

「いい子」
彼女の声が、通話で一番やわらかかった。私は深く息を吸い、パンティーを洗面台の端に置いた。濡れが目に入る。拭った部分だけ色が濃い。水を少し出し、ティッシュを湿らせて、洗面ボウルの縁を拭く。トラップの匂いが立つ。水を止める。音が消えると、心臓の鼓動だけが残る。

「玄関のところで待って。旦那、もうすぐ」
「わかった」
私はズボンを上げ、ベルトを締めた。金具が冷たい。パンティーはカゴの一番下に戻す。手の匂いを洗剤で軽く洗う。完全には消えない。残った匂いを、指先で鼻に近づけて確認する。薄い。ほとんどわからない。呼吸を整えて、玄関に向かう。靴ひもを結ぶふりをして、しゃがむ。視界が低くなって、床の埃が目に入る。

ガチャ、と鍵の音。私は立ち上がり、笑顔を準備する。扉が開く。旦那が入ってくる。白いシャツ、薄い汗の匂い。私を見ると、一瞬驚いて、すぐ笑う。「おう、久しぶり」私は軽く頭を下げる。靴を脱ぐ間、彼は私の肩を軽く叩いた。何の疑いもない手つき。私は喉が乾くのをもう一度飲み込む。

「ちょうど良かった。シンク下の止水栓、固くて。彼、器用だから助かると思って」
彼女がキッチンから顔を出す。いつものエプロン。髪はまとめ直されている。頬は少し赤いけれど、笑っている。私は工具を借りるふりをして、シンクの下を開けた。金属の冷たい匂い。空のボウル。止水栓を手で回すと、ちゃんと固い。ペンチで軽く回す。水の音。蛇口から出る水を見て、旦那が「助かるわ」と笑った。私は肩をすくめる。洗面所の光は消えている。あの布はカゴの底だ。証拠はゼロ。匂いは、私の喉の奥にだけ残っている。

帰り道、夜風が湿っていた。指先に残る薄い匂いが、たまに立ち上がる。信号待ちの短い時間に、私は彼女からのテキストを見る。「良かった。明日、洗う前に、また一回、来る?」私は短く返す。「はい」。胸が詰まる。罪悪感はある。はっきりと重い。でも、体はもう次の匂いを探している。

日曜の昼、彼女は別のパンティーを用意していた。白。クロッチに淡いシミ。洗面所ではなく、寝室で。時間は十分。旦那はジム。通話ではなく、目の前。彼女は私の鼻に布を押し付け、視線を逸らさずに言った。「自分で選んだんだから、責任は二人で分ける。だから、全部吸って」

私は吸った。舌で押した。布の裏を指で撫でた。彼女は片手で私の髪をつかみ、もう片手で自分のスカートの中を整えた。布越しの匂いが部屋に広がる。ベッドのシーツが擦れる音。時計の針。窓の外の車の音。全部が現実で、全部が背徳だった。

彼女の家を出たあと、私はコンビニのトイレで手を洗った。石鹸の匂いで上書きしても、完全には消えない。電車の窓に映る自分の顔は、昨日よりも落ち着いている。目の奥の光は、少しだけ暗い。でも、深い。匂いを吸った場所が、確かに自分の中にある感覚。罪悪感と快感が同じ温度で並んでいる。冷たくも熱くもない。ただ、濃い。

夜、ベッドに横になって、スマホを顔の横に置く。通知は鳴らない。代わりに、洗濯カゴの底の暗さを思い出す。レースの縁の手触り。クロッチの硬さ。布の裏についた、乾いた痕跡。あれを嗅いだ瞬間に起きた身体の反応。鼻から喉、胸、腹、腰へ下りる熱。思い出すだけで、指が震える。私は枕に顔を押し付け、深く息を吸った。何も匂わないのに、匂いがした気がした。脳が、記憶で補う。

禁断って、誰に向けた言葉なんだろう。私と彼女の間には、線がある。それを二人で跨いだ。跨いだあとで、戻るかどうかを決めるのも、二人。匂いを嗅ぐことも、舐めることも、拭うことも、全部、自分で選んだ。選んだ以上、引き受ける。次にあのレースに触れた時、私は今日よりも冷静に、正確に吸うだろう。息が詰まるまで。責任が喉に塊になって、最後に甘くなるまで。